誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

アナザーストーリーズ「日本人が愛したカーペンターズ~天才兄妹秘められた物語」 を見て

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日本人が愛してやまないカーペンターズ。初の武道館公演、彼らを襲った屈辱的なアクシデントとは?その一部始終を舞台袖で見ていたレコード会社の担当ディレクターが明かす、秘めた決意があった。そして、32歳で急逝した天才歌姫カレンをよく知る友人が日本のテレビに初証言、拒食症の真実を赤裸々に…。兄リチャードや、2人に寄り添い続けた作詞家が明かす、奇跡の天才兄妹デュオの知られざるアナザーストーリー。

  

日本でヒットに導いた男

カーペンターズを

日本で売り出そうとした

レコード会社ディレクター、寒梅賢。

 

会社に入る前に

バンドをやっていて、

ラジオで洋楽を聴き

その曲が

売れるか売れないか評価していた。

 

レコード会社に就職すると

洋楽部署に所属し

誰が日本でヒットするのか

探していた。

 

カーペンターズがカバーした

ビートルズの『Ticket to Ride』を

日本で出すことした。

 

理由は

ビートルズの曲だったから。

 

アメリカで

『Close to you』がヒットしたが

寒梅さんは

日本でヒットするとは思わなかった。

 

そんなとき

カーペンターズの初来日が決まった。

 

カーペンターズは

武道館でやる音楽祭の大トリであり

寒梅さんは

カーペンターズの担当となったが

特に思い入れはなかった。

 

そして

カーペンターズの演奏が

始まったとき

客がぞろぞろ帰り出した。

 

音楽評論家の

湯川れい子さんも帰った。

『Ticket to Ride』以外の曲は

知らなかったからだという。

 

客が帰り出した理由は

予定時間が押していて

カーペンターズの

出演時間と終電時間が重なったから。

 

しかし、カーペンターズは

この状況で8曲歌い

 文句ひとつ言わなかった。

 

寒梅さんは

絶対にカーペンターズを日本で

ヒットさせてみせると決心した。

 

知名度を上げるため

日本語のタイトルを工夫したが

結果にはでなかった。

 

営業をやり

テレビやラジオ、有線放送で

カーペンターズの曲を

流してもらったりした。

 

『Superstar』がある程度ヒットし

『Top Of The World 』を

アルバム曲の中から見つけ出した。

 

カーペンターズの音楽は

難しいことをやっている。

 

音楽業界のプロの方たちが

好きになる曲である。

 

1973年の

オリジナルアルバムが大ヒットとなる。

 

 

リチャード・カーペンターズ

カーペンターズは当初、

他の仲間とジャズバントを結成していて

音楽性もいまのカーペンターズの

ものではなかった。

 

テレビのバンド勝ち抜き番組で

カレンはドラム兼ボーカルで

出場したりしていたが

デビューには届かなかった。

 

1960年代後半のアメリカは

ベトナム戦争で反体制が主流であり

メッセージ性のあるロックが

流行っていた。

 

リチャードが目指したのは

イージー・リスニング。

日常に安らぎを与える音楽である。

 

そして、音楽性の違いから

バンドを解散し

カレンとデュオを結成した。

 

子供時代、 

カレンは活発であり

リチャードは内気な性格であった。

 

両親は音楽好きで

リチャードは音楽のセンスがあった。

 

当時のピアノ教師いわく

練習していなくても即座に弾けたという。

しかし、

カレンはピアノに興味を示さなかった。

 

父親の仕事の都合で

カリフォルニアに引っ越し

友達がいなくなったカレンは

兄とよく遊ぶようになり

音楽に目覚めていく。

 

運動神経のいい

カレンはドラムを選んだ。

 

リチャードは

カレンの歌声に才能を見出した。

 

有名ドラマーのハル・ブレインは

カレンに低い声で歌うようにと

アドバイスした。

 

音楽ライターいわく、

カレンの歌い方は

飾らない感じで人々の心に響いた。

カーペンターズの曲は

誰でも思いを寄せることができる。

 

 

作詞家のジョン・ベティス

ニクソン大統領は

カーペンターズを

アメリカの若者たちの代表と言った。

 

ジョン・ベティスは

大学時代のバンド仲間であり

リチャードの曲の作詞をした。

 

『青春の輝き』は

カレンの思いをすくいとった歌詞。

 

休みなくライブをし

レコーディングをする日々。

 

リチャードは時間をかけず作曲し

カレンはそれを歌い上げた。

 

カーペンターズは多忙になっていき

リチャードはパニック症候群となる。

 

1974年に来日したときには、

カレンの手にはカセットテープレコーダー。

リチャードの手にもカセットテープレコーダー。

 

ライブを録音し

質が落ちてないかチェックしていた。

 

ライブも

レコード並みのクオリティにしたかった。

カーペンターズは完璧主義であり

ライブを完璧にしたかった。

 

リチャードは睡眠薬に頼るようになり

カレンは拒食症になる。

 

カレンの友人が取材に応じた。

デビュー当初は

健康的なアメリカンガールだったが

その後、痩せていった。

 

それは

完璧でありたいという

願望からなのではないか。

 

30歳で実業家と結婚するが

破綻してしまう。

 

 

感想

自分のカーペンターズの関係といえば

子供のころによく見ていた

TBSの学校へ行こうという番組の

挿入歌で使われていたことである。

 

音楽の授業でも

カーペンターズの曲を

聴いていたような気がする。

 

自分もこの洋楽が

日本でヒットするか評価したくなる。

 

BORN CRAIN(ボーン・クレイン)は

ヒットすると思っていたが

あまり大ヒットしなかったので

自分が好きなアーティストが

大衆に受け入れるとは限らない。

 

カーペンターズがブレイクしていた

1970年代のアメリカの音楽は

結構重要なポイントなのかもしれない。

 

ベトナム戦争で

反戦メッセージのある音楽からの

反動があったからかもしれない。