誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

イエスはなぜわがままなのか を読んで

 

 

 

キリスト教の聖典である新約聖書には、イエス・キリストのさまざまな言行が記されています。 実はその中に、おだやかで優しいイエスに対するイメージががらがらと壊れるような、不可解なエピソードがいくつかあります。わがままだったり、理不尽だったり、暴力的だったり……!! たとえば、おなかが空いているのに、イチジクの木に実がなっていなかったという理由で、いちじくに「枯れてしまえ」と呪いの言葉を吐き、枯らしてしまった、このように自分勝手で短絡的な話があるのです。 そんな理不尽なエピソードの数々をごらんにいれましょう、あなたはそれをおかしいと思うでしょうか? それとも特に問題とは思わないでしょうか? そもそもそれが理不尽なのか、また、なぜ世界の多くの人が信じる宗教の聖典にそんなエピソードが載っているのかについて、哲学者にしてクリスチャンである著者がやさしく合理的に解説。 意外なエピソードからキリスト教やクリスチャンへの誤解を明らかにし、私たちの知らなかった聖書の「真実」を探っていきます。

  

新約聖書にあるイエスの言動や行動には

優しいイメージとかけ離れたものがある。

 

そのことに対して

クリスチャンとして

どういうふうに考えればいいのか。

 

多分、人間の世界としては

イエスの言動や行動は理解できないが

神との関係であれば

腑に落ちるものなのかもしれない。

  

神のなすことは我々には理解できない。

 

この本で一番納得のいった箇所は

原罪についてどう考えればいいのかということ。

 

人間は常に神を意識することができない。

神のほうに心が向いていないことが罪である。 

 

しかし、

イエス・キリストを通して、神を知ることができ

自分が原罪を持った人だという意識が芽生えるという。

 

そして祈りとは神の方に向くことでもある。