誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

キリスト教と戦争 (中公新書) を読んで

 

 

 

 

世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ「愛と平和」を祈りつつ「戦争」ができるのか?殺人や暴力は禁止されているのではなかったか?本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。

 

アーミッシュという宗教集団でおきた殺人事件。

 

普通の感覚ならば、憎むのが当然である。

 

しかし、アーミッシュの人たちは

加害者の家族を許し、寄付までする。

 

イエスの教えである

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」を

実践している、すばらしい集団だ。

 

しかし、本当にそうなのだろうか。

 

仲の良い家族が殺されても

神の愛によって許すことができるのは

自尊心のなさ、原罪意識がある可能性もある。

 

本の序章はいきなり

キリスト教の本質にせまる内容で始まる。

 

愛のために戦争をすることは

キリスト教的にどうなのか。

 

不幸から守る防衛ならば

人を殺してもいいのか。

 

そのような問いを読むと

マルティン・ルターを思い出す。

 

ルターにとって

ドイツ農民戦争の虐殺は汚点とされるが

ルター側から見れば

農民からの略奪や女性子供を守るために

決断したことと言われる。

 

キリスト者として

平和のために人を殺していいのか。

 

そんな問いが何回もでてくる。

 

さらにキリスト教は

戦争にいく兵士の心の支えともなる。 

 

戦いはある意味、

受難でありそれに耐えることは

イエスの十字架と似ている。

 

つまり戦で死ぬことは

殉教として見られるかもしれない。

 

さらに戦場に同行していく聖職者、

チャプレンは愛のために命を投げ出すという

使命を兵士に与えることになる。

 

本の最後で著者は

キリスト教の本質である愛について語っている。

 

愛とは大切にすることであり

イエスが愛せよと理屈抜きに命令しているという点。

 

いいかえれば

イエスの教えは「すべてを大事にしろ」ということである。

 

確かに、愛という概念について

大切とか大事とかのほうが日本人的にしっくりくる。

 

日本人にキリスト教がなじまない理由に

愛の宗教だということがあるかもしれない。

 

愛=大切、大事と言い換えれば

日本人にも愛という宗教、

キリスト教が普及していくかもしれない。