誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書) を読んで

 

 

西洋中世において最大の神学者であり哲学者でもあるトマス・アクィナス(一二二五頃‐一二七四)。難解なイメージに尻込みすることなく『神学大全』に触れてみれば、我々の心に訴えかけてくる魅力的な言葉が詰まっていることに気づく。生き生きとしたトマス哲学の根本精神の秘密を、理性と神秘の相互関係に着目して読み解く。

 

アリストテレスのいう枢要徳では

頭が良かったり、性格がよかったりすれば

世俗的な面からみれば素晴らしい人となる。

 

しかし、トマスは

そこに神学的徳を追加している。

 

 

新約聖書にあるお金持ちの青年の話。

 

この青年はユダヤの律法を守っていた。

いわゆる枢要徳に関しては

立派な人だったかもしれない。

 

しかし、イエスが完全になるためには

持ち物を売って貧しい人に施すことと言われると

青年にはそれができなかった。

 

金持ちが天国に行くのは、

ラクダが針の穴を通るより難しい

 

イエスはそのあと

神にはすべてのことができると話す。

 

それが神学的徳ということかもしれない。

 

お金を得ることを目指し

神学的徳をおろそかにしては

永遠の至福は難しい。

  

 

神学的徳は

信仰・希望・愛徳であり

神との関係が良好となること。

 

ある意味、神学的徳により

人間としてバージョンアップすることかもしれない。

 

ではバージョンアップして何をするのか。

それは幸福を目指し、人を愛するということ。

 

人間には理性的であることが求められる。

その理性を極めれば神を知ることにつながる。

 

例、

聖書はイエスの弟子たちの証言で

成り立っている。

 

おおもとはイエスの奇跡である。

そこに神の徴が現れている。

 

その徴を信じるか信じないかは

自由意志となる。

 

この本で反論もある。

それはイエスが信仰や希望を

有していなかった箇所。

 

ゲッセマネの園での祈りで

神に熱心に祈っていたこと。

 

十字架にかかったとき

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言ったこと。

 

そこは信仰や希望ということに

値するのではないか。

 

そんな疑問も残るのだが

疑問が残ることが魅力であり

神秘ということにもなる。