誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫) を読んで

 

 

『キリスト者の自由』は、福音主義の信仰の真髄を明らかにしたもので、ルター(1483 -1546)のいわゆる宗教改革的論文中の珠玉の一篇である。小著ではあるが、ここには「キリスト教生活の全体」が含まれている。同じく改革思想史上の基本文献として、ルターが全生涯をかけてなしとげたドイツ語訳聖書の序言3篇「新約聖書への序言」「ローマ人にあたえた手紙への序言」「詩篇への序言」を併収。

 

キリスト者は

すべてのものの上に立つ自由者であり

すべてのものに奉仕する僕である。

 

これは矛盾している。

 

まず、霊的な面と身体的な面がある。

霊的な人をキリスト者と呼ぶ。

 

身体的な部分が

良いか悪いかは関係ない。

 

教会に行くことも

霊的には関係がない。

 

何なら霊的に関係あるのか。

それは神の言葉である。

 

神の言葉よりも大切な恩恵はない。

その神の言葉は

キリストの説教にある。

 

キリストを信仰すれば

自由になれる。

 

信仰することがキリスト者の務めであり

それ以外にない。

そして、何も必要としない。

 

聖書には2つに分けられる。

神の戒めの律法(旧約聖書)と

神の約束、呼びかけ(新約聖書)である。

 

律法では神は助けてくれない。

神が助けてくれるのは呼びかけである。

 

信仰があれば、行いは必要なく

律法からも自由になれる。

 

十戒の第1。

・主が唯一の神であること。

これは信仰のことである。

 

すべてのものは

霊的に神(キリスト)に従属されている。

 

キリストは霊的に

王者であり祭司であった。

 

キリスト者も信仰を通じて

霊的な王者であり祭司者になれる。

 

さらに祭司は神の前で

人々のために祈る。

 

問題は、この祭司職が

一部の少数の人たちの

特権になっていることである。

 

キリスト教徒のすべてが

奉仕、事務、説教をするわけにはいかない。

 

ではキリスト者とは、

信仰だけで善行は必要ないのか?

それは違う。

 

キリスト者は

霊的に自由となったが

すべてのものに奉仕する僕である。

 

キリストを信仰すれば

期待なしに神を愛し、

奉仕しようとする。

だから見返りを求めてはいない。

 

欲望を抑えるための

身体的な苦行はいいが

信仰ない苦行は体を悪くするだけである。

 

良い行いをして

良い人になるのではなく、

良い人が良い行いをする。

 

信仰すれば

良い行いをつくることができる。

 

まずは人格をよくすること

それは信仰以外にない。

 

不信仰であることが

人格を悪くする。

 

聖書の言葉

「良い木が悪い実をならせることはないし、

 悪い木が良い実をならせることはできない」

 

 

キリスト者になり

隣人に仕えることが大切であり

イエス・キリストが手本となる。

 

そして喜びに満ちた生活となり

これがキリスト教的な生活である。 

 

感想

上記は本の内容をというよりも

自分が心に引っかかったメモである。

 

マルティン・ルターの名言。

「たとえ明日世界が滅亡しようとも、

 今日私はリンゴの木を植える」

 

この名言は今まで、

食料としてのリンゴだと思っていた。

 

世界が滅亡しようとも

食料を作り希望を見失わない

という意味だと。

 

しかし、

この『キリスト者の自由』を読んで

見方が変わった。

 

このリンゴの木とは

信仰のことだと思った。

 

聖書の言葉で

「良い実は良い木からなる」と。

 

だから

明日、世界が滅亡しようとも

キリストを信仰し

キリスト者でいるという意味なのだと。

 

この本では信仰がすべてだと言っている。

では信仰ならば、なんでもよくて

カルト宗教でもいいのだろうか。

 

カルトの信者は比較的、性格がよく

信仰心がある人たちが多いと聞く。

普通に接する分にはいい。

 

問題なのは

教祖がお手本とならない点である。

 

カルト教祖は

立派なことを言っているかもしれないが

信者を不幸にし、人々を傷つけている。

 

イエス・キリストは

立場の弱い人たちに対して

愛を持って接した。

 

教祖が模範になるかどうかで

カルトかどうがを

見分けるのもいいかもしれない。

 

 

さらに余談だが

スピリチュアル本で

『神との対話』という本があって

同じようなことが書いてあった。

 

『神の対話』には 

しなければならないことは何もない。

存在から行為になる。

というよりなことが書かれている。

 

幸せになるために、行動するのではなく、

幸せな人間だからそのような行動をする。

というもの。