誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

日曜美術館「ピカソ×北野武」 を見て

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北野武さんが初登場!いま心ひかれる画家ピカソを語りつくします!浮かび上がる二人の意外な共通点とは?北野さんが選ぶ1枚の傑作から見えてきたピカソ驚きの魅力は?!  20世紀最大の画家パブロ・ピカソが初めて自らのスタイルを確立したのが「青の時代」。悲哀を青で表しました。北野武さんも「キタノ・ブルー」と呼ばれる、青が印象的な映画を監督しています。なぜ二人とも青? ピカソはその後、極端なほどスタイルを変え続けます。新たなスタイルにチャレンジし続ける北野さんは、ピカソの変貌をどう見るか? 巨匠ピカソと世界のキタノ。二人のあいだに何があるのか、とくとご覧ください!

 

『泣く女』ー1937年10月26日

悲しみと怒りが混在している。

原色を使い

不協和音の色使いだがマッチしている。

 

モデルは恋人の

写真家ドラ・マール。

 

この絵は見終わったあと

思い出すことが難しい。

 

 

『海辺の母子像』ー1902年

青い海と青い空。

 

ピカソの青の時代。

青で悲しみを描く。

 

この絵をX線でみると

全く別の絵が描かれてあった。

 

ドレスを着た町娘。

白、黄色、オレンジで描かれていて

新しいスタイルを探していたことがわかる。

 

ピカソは

1881年、スペインで生まれる。

母親いわく

言葉より先に絵を描いていた。

 

19歳でパリに行ったが

絵は売れず 生活が苦しく

友人が自殺してしまう。

『青い自画像』を描く。

 

北野武さんの

『あの夏、いちばん静かな海。』も

キタノブルーと呼ばれた。

 

葛飾北斎も青をよく使っていた。

 

青は、自然のなかにあって

他の色を必要としない。

昼も夜も表現できる。

 

しかし、

青の時代の画風を

3年ほどで捨てる。

 

恋人もでき、絵が売れるようになると

絵も明るくなった。バラ色の時代。

 

 

バラバラに描いて組み合わせる。

キュビスムというスタイルを確立する。

 

ピカソは時代の変化によって

スタイルを変えていったといえる。

 

北野武『DollS』では

キタノブルーとは違い、

鮮やかなスタイルである。

 

キタノブルーと言われるのが辛かった。

それは、あの映画の色であって

それが当たっただけである。

 

ピカソは

いい意味で飽きっぽかったのではないか。

 

 

『ゲルニカ』ー1937年

1936年、スペイン内戦が起きる。

 

ピカソは

パリ万博のスペイン館の壁画制作を依頼され

芸術の自由がテーマだった。 

 

しかし、 

ナチスがゲルニカを空爆し

テーマを変えた。

 

1か月ほどで絵は完成し

その制作過程を

ドラ・マールが写真に撮っていた。

 

制作段階では、火が描かれ

牛はナチスやフランコを

表現しているようであった。

 

高く上げた握り拳は

反対の声を上げる共和国政府だったと

考えられる。

 

しかし、完成したのは

火もなく、牛の存在感は小さくなり

握りこぶしも画かれてなかった。

 

それは

作品は永遠に生き続けるという

考えがあり

人類共通の遺産を作り上げたのでは

ないかということ。

 

牛の部分はポツンとあって

ナチスがふっと出てきたような

感じかもしれない。 

 

 

『男の顔』ー1972年

ピカソの晩年は評価されなくなっていった。

 

ピカソ

「子供らしい絵が描けるようになった」

 

描いた作品に対して、評価ということは

考えていなかったように思える。

 

 

感想

青の時代、バラ色の時代、

アフリカ彫刻の時代、キュビスムと

画風をたくさん変えていっている。

 

それは、パリに行ったとき

絵が売れなくて、友人が自殺した経験が

元になっているのではないか。

 

絵が売れないと本当に苦しく

売れるためになんでもやった。

 

 

しかし、ピカソも北斎も

なぜ青なのだろうか。 

 

自分も青色が好きである。

 

青色は落ち着くし

リラックス効果があるらしい。

自分の布団と枕も青色である。

 

青の時代で

ピカソの絵は売れて有名になる。

 

本質的に多くの人は

青色が好きだということを

理解していたのだろうか。