誤謬日記

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華麗なるミュシャ 祖国への旅路 パリ・プラハ 二都物語 を見て

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幻の大作とされた20点の絵画が日本で公開された。壮大でリアルな歴史劇。作者はパリで活躍したミュシャ。華麗な女性のポスターで名高い画家が、なぜ別人のような作品を?  ミュシャの謎を探る旅に出るのは女優の多部未華子さん。画家の足跡をたどってパリへ。19世紀末、艶やかな女性のポスターでいかに人気だったかを体感。しかし、ミュシャは50歳で祖国チェコに帰国。大作「スラヴ叙事詩」に挑む。多部さんもプラハで対面。絵の中からこっちを見る不思議な人たちを見つける。何を語りかけてくる?ミュシャがこもった中世の城や驚きの資料から、大作に込められた感動のメッセージが浮かび上がる…。

 

パリのアーケード。

ミュシャの絵葉書が売ってあり

ミュシャの名前のカフェまである。

 

郊外のアンティーク店。

ミュシャの広告のポスター。

タバコや印刷所の

商品そのものではなく

女性の表情を描いた。

 

ルネサンス劇場。

モデルや女優が注目される時代、

34歳のミュシャは

女優のポスターを頼まれる。

 

ジスモンダというポスター作品。

モデルはサラ・ベルナーレ。

それが大評判となり

ミュシャは有名になっていく。

 

サラ・ベルナーレは

毎晩、棺桶で寝たり

豪華な生活、

自己演出する人であった。

 

草花や来光を周りに描き 

ミュシャを聖人のイメージで描いた。

 

植物学者のようなデッサン。

リアルな植物をデッサンして

ポスターをデザインしていく手法。

 

どんどん絵の注文が多くなり

ミュシャは疲れてしまい、

パリから姿を消し

50歳のときチェコに戻る。

 

 

祖国チェコの首都プラハ。

 

17世紀にチェコの人々は

ハプスブルク家に反抗したが

失敗し27人が公開処刑されてしまう。

 

チェコは

ハプスブルク家の属国となり

ドイツ語が公用語となる。

 

ミュシャの孫。

「パリ時代が

 ミュシャの全盛期と言われているが

 チェコのために

 作品を作りたいと思っていた。」 

 

ミュシャは

プラハの市民会館の

装飾を手がけた。

 

天井画に村人が描かれていて

チェコの多くは農民で

民衆の力を表現しようとした。

 

スラヴ叙事詩。

スラヴ民族の歴史絵巻。

人々の暮らしが描かれている。

 

戦いの直後の場面が多い。

宗教改革時代の

ハプスブルク家が攻めてきたときや

最後の一枚では

チェコの独立を描いた。

 

ベツレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス。

大勢が描かれていて

誰が主役がわからない。

身分の高い人を大体的に描いていない。

 

ミュシャのアトリエ。

ズビロフという村の

ズビロフ城で

スラヴ叙事詩を描いた。

 

ズビロフの村人の写真を撮って

絵を描いた。

様々な職業の人たちであり

村人に衣装を着させて写真を撮った。

 

歴史の場面に

20世紀の人々を登場させたのは

顔の表情が大切だと考えていたからだという。

 

歴史は皇帝のものではなく

村人一人一人のものであるという意識があった。

 

戦いが終わった場面、

1人の女性が

比較的大きく描かれている。

 

戦争では

プロの兵隊ではなく

庶民が戦っていた。

 

その女性は

勝った側であったが

かかえていた赤ん坊を心配していたり

戦争に参加するとは

どういうことなのか

表情で表現していた。

 

1939年。

ナチスドイツはチェコに侵入する。

ナチスが作ったチェコの要注意人物リストに

愛国主義者とされたミュシャが載っていた。

スラヴ叙事詩が原因だとも言われる。

ゲシュタポに逮捕され

4か月後に体調を崩して亡くなってしまう。

 

 

感想

このころの画家は

よく作風が変わる印象がある。

 

ミュシャも

パリにいた時と

プラハに行った時とで

かなりの差があった。

 

それは時代背景に

関わってくることなのだろうか。

 

サラ・ベルナーレの

絵の依頼がなければ

有名になっていない可能性もある。

 

このころの時代は

いくら絵がうまくても

運とか人脈がなければ

成功できなかっただろう。

 

パリ時代は

華やかなスターを描いていたが

そういった面を

押し出せなくなったのかもしれない。 

 

 今回番組では

ミュシャが34歳のときまでは

売れない画家だとあったが

その売れていない時期のことも

気になってくる。

 

ウィキで軽く調べたら

子どものとき聖歌隊に入っていたとのこと。

 

確かにミュシャの

パリ時代の作品は

宗教画と似ている感じがして

そういった知識もあったと思える。