誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

ザ・プロファイラー「“森羅万象”に挑んだ天才画家~葛飾北斎~」 を見て

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岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。すみだ北斎美術館の開館で、改めて注目される葛飾北斎。森羅万象をあらゆる手法を駆使して描き、3万点以上もの作品を残した。ヨーロッパの印象派に大きな影響を与え、世界で最も有名な日本人と言われる。一方、30以上の画号を使い分け、93回も引っ越しを繰り返すなど、奇行も目立った。人気画家でありながら、常に貧乏暮らし。世界をとりこにした破天荒な画家の人生に迫る。

 

 

北斎は若い時

絵を描くためにいろんな仕事を選んだ。

彫り師や本売りなどを仕事をする。

それは本を見て、絵の勉強したかったからである。

 

先輩方に絵を破られたことがあり

それがきっかけで

世界一の絵描きになることを目指す。

 

徳川家康

武田信玄の戦から負けて逃げてくるときに

漏らしてしまい

それを絵にして戒めにしていたらしい。

 

2人とも自分の嫌な経験を

モチベーションに変えていっている。

 

 

綺麗な色使いを当時の幕府から

禁止され

本の挿絵に挑戦し黒一色の 

現代の漫画のような絵を描いた。

そこで人気が出る。

 

 

北斎は引っ越しや

画材道具などで

お金が飛んでいった。

 

引っ越しは部屋が散らかっただけでなく

新しい環境に身を置きたい。という考えが

強かったのではないか。

 

画号まで売った。

絵に自信がないとできない。

自分の名前まで興味がなかったのである。

 

西洋からベロ藍色が輸入されると

滝や海など水の作品を作る。

これは単にベロ藍を使うことが

楽しかったんだと思う。

 

以前の浮世絵は人物がメインだったが

北斎は風景画、人物がサブになり

自然がメインになる。

 

90歳近くになると

龍とか鳳凰、宇宙というものを描いた。

 

 

 

葛飾北斎

絵を描くことが好きで

それ以外のことに興味がなかったのだと思う。

 

6歳のときに

すでにもう「物のかたちを写す癖あり」とある。

絵を描くことが好きな人を

こう表現するとは思わなかった。

 

画号を変えたり売ったり

地位とか評判にも興味がないし

自分が積み上げたものに関心がなかったのだろう。

 

なんでヨーロッパの日本も中世時代から

デザイナーは収入が少ないと言われてるのだろうか。

 

画材用品も値段が決まってなく

現代みたいに科学が発達してなく

絵の具も手作りだったから

お金がかかっていたのかもしれない。

 

北斎

100歳まで生きて

年を取ればとるほど絵がうまくなると信じていた。

 

現代では

若いうちのほうが物覚えがよく

クリエイティブがあるみたいな話が多い。

 

年をとると、だんだん欲がなくなっている。

自分も30近くなって

物事を覚えたい、仕事で頑張りたいという欲がなくなっている。

 

しかし

北斎はずっと新しい手法に挑戦し続けていた。