誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

アナザーストーリーズ 運命の分岐点「ハリー・ポッター 魔法のような誕生劇」 を見て

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「ハリー・ポッター」の原稿はイギリス中の出版社から断られていた!今や世界的作家となった作者JKローリングは当時無名のシングルマザー。実は最初の大事な原稿をお門違いの事務所に送ってしまった!だが郵便仕分けを担当する奔放な女性の行動が、奇跡の連鎖を巻き起こし、やがて出版社の拒否を乗り越える!そして日本版製作のウラにも驚きの奇縁の数々が!ハリー・ポッター誕生の陰の、驚きの偶然の数々!

 

1997年、6月26日。

ハリー・ポッターの

第1巻が発売された日。

 

J・K・ローリングにとって

初めての作品であった。

 

 

事務員 ブライアニー・イーブンズ

職を転々としてきたが

給料がよかったので

著作権代理事務所に転職した。

 

著作権代理事務所とは 

作家の代理人で

マネージャー的な仕事。

 

ブライアニーは

ある日、売り込み原稿を

仕分けしていたが

この事務所では

児童書は扱わないことになっていた。

 

しかし、ちょっと読んでみたら

おもしろかった。

 

 

J・K・ローリングは

スコットランドにある

カフェの2階で執筆していた。

 

小さい時から空想好きで、

イギリスの大学を卒業後、

ポルトガルで英語の教師となる。

結婚したが28歳で

シングルマザーとなる。

 

妹夫婦が暮らす

スコットランドのエジンバラに

住むことになったが

収入は生活保護が頼りであった。

 

そんな中、

頭に浮かんでいた物語を書いた。

 

イギリスに戻って2年。

物語は完成したが

コネもなく

代理人事務所に送るも

おことわりがでた。

 

今度は

名前が気に入った事務所に送り

それがブライアニーの事務所であった。

 

ブライアニーが個人的に

続きを読みたくて

「続きを送って」と手紙を送った。

 

上司のクリストファーも

気に入り、代理人が決まった。

 

出版社探しは難航した。

ページの分量から

長い作品を子供が読むのかという懸念。

イギリスの大手出版社はすべて断られた。

 

中堅の出版社からOKがでた。

社長は娘に読んでもらい

娘は気に入った。

 

アメリカの出版社が権利をもらい

人気が広がっていった。

 

事務員のブライアニーは

J・K・ローリングの

サイン会で初めて会った。

 

J・K・ローリングは 

「続きを送ってほしい」と

手紙をくれた恩人の名前を覚えていた。

 

ブライアニー

「私が発見しなくても

 他の誰かが気づいていただろう」

 

 

画家 ダン・シュレシンジャー

ハリーポッターは様々な国で

翻訳されていて表紙も違うが

J・K・ローリングは

日本版の表紙が一番気に入っているという。 

 

ダンは若いときは

マラソンのアメリカ代表候補であり

いい大学を出て弁護士の資格も取った。

 

弁護士で収入を得ながら

マラソン選手を目指す計画であった。

 

しかし、けがをして

五輪に出られなく引退した。

 

弁護士として

イギリス、アメリカ、日本を

飛び回っていたが

息抜きに絵を描くようになった。

 

飛行機でたまたま隣り合わせた

松岡佑子さんと連絡先を交換した。

彼女は

英語の同時通訳の仕事をしていた。

 

出会いから20年。

松岡さんは夫の出版社を継いでいた。

 

ダンに本のおすすめを聞いたら

それがハリーポッターであった。

 

日本での出版権を取り

ダンは絵を描く約束した。

 

ケイティ・ホーク

6歳で小児がんと診断され

そのときにハリーポッターを読んだ。

 

弁護士のポールは

ケイティの力になりたいと思い

出版社に連絡すると

J・K・ローリングから返事がきた。

 

J・K・ローリングと

ケイティのメールのやり取りが始まった。

ユニークなやり取りや

このこと秘密にすることなど。

 

J・K・ローリングは

子供を救う基金に多く寄付している。

 

ロバート・ガルブレイスが

書いた推理小説。

 

書いたのは

J・K・ローリングであった。