誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

スポットライト 世紀のスクープ を見て

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2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。デスクのウォルター"ロビー"ロビンソンをリーダーとするチームは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。やがて9.11同時多発テロ発生による一時中断を余儀なくされながらも、チームは一丸となって教会の罪を暴くために闘い続けるのだった・・・。

 

街と教会と新聞社。

それぞれ微妙な関係で成り立っている。

 

教会は地域のコミュニティーにとって

なくてはならない存在であり

その教会の権威を失墜させてしまったら

みなが不安に陥ってしまう。

 

ようするに

教会が市民の心の拠り所になっているのである。

 

しかし、その神父たちが児童虐待をしていたら。

 

取材を進めているなか

9.11同時多発テロが起きてしまい

こういう状況だから

教会が必要だという意見。

 

この問題は、

一握りの変わった神父のせいにしていては

根本的な問題解決にはならない。

 

教会全体の問題として取り組まなければならず

教会がこの問題を

もみ消していたという事実を報道しないといけない。

 

なぜ児童虐待をしてしまう神父が多いのか。

 

この映画の中では

心理的に独身制が問題だと言っていた。

あまりにも禁欲的であること。

しかし、本能としてあるものなので

隠れて弱い立場の人に向かっていってしまう。

 

しかし、自分は違う見方をする。

 

自己啓発本でいわれる

「人は自分の思った通りの人間になる」

という考えが関係しているのではないか。

 

原罪意識により

自分は悪い人間だと思っているから

結果的に悪いことをしてしまっているという理屈である。

 

いわばルターのいう信仰義認の理屈に近い。

 

しかし、そう考えてしまうと

教会の教義の問題となってくるので

教義を変えない限り

神父の児童虐待の問題はなくならないという結論になる。

 

そもそも性に対する原罪論は

教父アウグスティヌスが

マニ教的な禁欲主義をキリスト教と融合させて

しまったのが原因という説もある。

 

アウグスティヌス自身も

そういった欲望に溺れていた時期があった。

 

しかし、それは何も悪いことではない。

そのことを悪いと思ってしまうことに

問題があったのだ。

 

興味深かったのは

児童虐待をした神父も

幼い時に虐待されていたという証言。

 

神父さえも救えない教会に

他の人々を救済することなど、できるのだろうか。

 

この映画をみると

カトリックについて否定的な感情が出てくる。

 

映画のなかではあるが、

取材をしていた記者も

カトリックの信仰を捨てていくと思える場面がある。

 

被害に合ってしまう子供達にも共通点がある。

家庭が崩壊している、貧困家庭など。

 

そんな子供たちが

神から任命された神父から気に入られてもらえれば

そういう被害に合ってしまうのも分かる気がする。

 

しかも神父には

誰にも使えない口説き文句がある。

「神に愛されなくなるよ」

 

 

いろんな伏線があり

このような事態を生んでいるのである。

 

あと、この映画には名言が多い。

 

・みんな闇の中を歩いているようなもので

 間違った道だとわかるのは

 スポットライトが当たったときだけである

 

・こんなのを記事にして誰が責任をとるのか?

 では、記事にしない責任はどうすればいいのか?

 

・教会の問題と

 信仰は分けて考えないといけない。