誤謬日記

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ビデオニュース 今村復興相の「激怒」会見が露わにしたもう一つの重大な問題 を見て

 


今村復興相の「激怒」会見が露わにしたもう一つの重大な問題

 

今村雅弘復興担当大臣が記者会見で、自主避難者が帰還するかどうかは自己責任だなどと述べた問題は、政府が原発事故の責任を真摯に受け止めていない実態を露わにし、原発事故の被害者はもとより多くの国民の怒りを買った。   と同時にあの発言は、いかに日常の政府会見がデタラメなセレモニーに過ぎないのかを期せずして明らかにしている。   今村大臣は4月6日の記者会見で、フリージャーナリストの質問に対して、「自主避難者は本人の責任」「裁判でも何でもやればいい」などと述べた上で、執拗に食い下がる記者に対して「出ていきなさい」、「二度と来るな」、「うるさい」などと暴言を吐いた。確かにフリージャーナリスト西中誠一郎氏の質問は執拗だったが、大きな権限を有する大臣に対して厳しく回答を迫るのは、むしろ記者としては当然の責務だ。少なくとも西中氏の質問には明らかに礼を失した言動や態度は見当たらなかった。記者から痛い点を執拗に追求され、答えに窮した大臣が最後は怒鳴り散らすしかなくなるという、一国の大臣にとってはなんとも無様な会見だった。   今村氏の発言については、氏自身が翌日の会見で発言を撤回しているが、重大な問題を孕んでいるため、今後、国会などでも追求されることになるだろう。しかし、件の会見で大臣が取った態度は、もう一つ大きな問題を露わにしている。   それは、日本政府の大臣がいかに日頃からメディアの厳しい追及を受けることに慣れていないかということだ。   そもそもあの程度の追求で癇癪を起し、感情的な答弁を繰り返してしまうようでは、大臣はおろか政治家としても失格である。事前に質問が通告される国会審議では、官僚の作文を読んでいれば済むのかもしれないが、どんな質問が飛び出すかわからない記者会見では、大臣はいかなる質問に対しても冷静に対応する知力と判断力を備えていることが最低限の条件となる。   ところが、日本の大臣会見は通常は記者クラブに所属する大手メディアの顔見知りの記者とのナアナアなやりとりがほとんどだ。そんな予定調和会見に慣れきってしまった大臣の中には、時折予想外の質問が出るとトンデモ発言をしてしまったり、中には今村氏のように感情的になり怒鳴り散らしてしまうような人が、日本では当たり前のように大臣をやっている。   西中氏の執拗な質問に対し、ネット上では「しつこい」、「異常だ」などとの声が一部で上がっているようだが、それは通常の記者クラブの予定調和の会見がディフォルトだと勘違いしているからに過ぎない。内閣を代表する大臣に対して政府の見解を質す唯一の機会が記者会見である以上、記者会見が激しい真剣勝負の場にならない方がおかしいのだ。   特定の報道機関のみに特権的なアクセスを与える記者クラブ制度の下では、本来政府を監視する立場にある報道機関が権力に取り込まれてしまう問題があることが指摘されて久しい。ひいてはそれが国民の知る権利を制限することにつながるからだ。そして、その「知る権利」の中には、資質に疑問がある大臣を放置することも含まれていることを、今回の事件は物語っている。   今村発言が露呈したもう一つの問題を、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 

 

無料放送だし、いろいろ

おもしろかったのでブログに書く。

 

今村大臣の悪態問題。

 

確かに今村大臣の

「ここは公式の場だぞ」の

発言には自分もびっくりした。

 

記者会見は、公共の場ではなく

密室の場であるという認識なのだろうか。

 

さらに問題は

記者のタイプライター化にも及ぶ。

 

会見中にずっと 

記者の方々がレッツノートで

キーボードを叩いているらしい。

 

田原総一朗さんも池上彰さんも

記者がパチパチやっているのが

問題だと言っていた。

 

答える人が、どんな表情で

どこで言葉を濁すのかを

見ないといけない。

 

これは、上司に会見の内容を

すぐに原稿で送らないと

いけないという理由である。

 

つまり会見での発言が情報となり

他社よりもはやく記事を出すことが

求められる。

 

そこまでして、他社よりも

記事を早くあげる意味が

ネット時代にあるのだろうか。

 

記者の質問も

事前に用意していたものを

言うだけである。

 

記者会見の内容や様子を見て

質問を変えたりすることは

滅多にないらしい。

 

 

官僚組織については

まったく雲の上の存在なので

自分がどうこういえる立場ではないし

特にそこまでして不満に思うこともない。

 

多くの国民にとって

官僚の方々はエリートすぎて

ブラックボックスとなっていると思う。

 

共通点としては

官僚が足で現場を見ずに

報告書を書くことで

いっぱいになっているということ

ぐらいだろうか。

 

自分も似たような経験がある。

テレビ制作の現場でも

そうだった。

 

ロケハンや取材をするよりも

ネットで調べたのを

報告書として作る。

 

その方が楽だし、足で稼いだものが

報われない可能性もある。

効率主義の行き着いた結果なのだろうか。

 

きちんとした報告書を書くことが

仕事の成果としてやったことになる。

 

しかしこの報告書を

上司がちゃんと見ているかと

言われればざっと見るだけである。

 

突っ込まれる場合もあるが

突っ込まれなければ

なんでもいいのである。

 

なぜこのような

仕事の仕方になってしまったのか。

 

仕事でネット通信を駆使して

やるようになったからかもしれない。

 

便利すぎて

パソコンだけで仕事を

完結したくなってしまうのである。

 

www.basyanuko.com

 

クローズアップ現代で

取り上げられたサピエンス全史。

 

この著者の

新刊が出たらしい。

 

神保哲生氏いわく

この本がやばいらしい。 

 

まだ英語しか出てないが

翻訳出たら読もうかと思う。

 

それが出版される前に

サピエンス全史を

読まなければいけない。

 

人工知能によって

人がいく道を示してくれるようになると

人間に主体性が必要なのかどうかという

問題に発展する。

 

選挙でいえばアカウントの 

フォロー、フォロワーを見れば

誰がどこに投票するかわかるという。

 

逆に

どういう情報に人に見せれば

誰に投票するか

誘導できるということでもある。

 

今は、ランダムな情報で

自分が取捨選択して

主体的に考えていると思っているが

目に入る情報がランダムではなく

意図的に作られたものかもしれない。

 

そもそも主体性とは

無意識で選んだことが

後から主体的であったと

気づくことである。