誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

たけしの新·世界七不思議大百科 第4巻 を見て

www.tv-tokyo.co.jp

 

テレビマンユニオン制作なので

TBSの世界ふしぎ発見と作りが全く同じである。

テレビマンユニオンはテレビ業界では有名で

最初の番組制作会社であり、是枝裕和さんも所属している。

 

世界ふしぎ発見と 

再現ドラマも

ナレーターもフォントも全く同じである。

 

レポーターの話し方も表情も一緒で

カメラ割りも全く一緒なのが気になってくる。

 

紀元前14世紀、わずか9歳で即位したというツタンカーメンにはいまだ多くの謎が残されている。エジプト歴代のファラオの名が刻まれた王名表には、なぜか、その名がない。さらに、若すぎる不可解な死。なぜ、ツタンカーメンは19歳でこの世を去ったのか? そして、少年王をめぐる最大の謎がその王墓。驚くべき新説を唱えるのは、エジプト考古学の第一人者、吉村作治。 「あの墓は、本物の墓ではない」 では一体、ツタンカーメンの本物の墓とは、どこにあるのか? カギを握るのは、少年王に寄り添う、謎の人物。異国からやってきた男は、策略をめぐらし、エジプトを乗っ取ろうとしていた!その手に権力を握るため、繰り返される暗殺劇。歴史から抹殺された、少年王の知られざる真実。 今夜、封印を解き、ツタンカーメンの本物の墓を公開!

 

ツタンカーメンの話は、飽きるほどやっているので

今回、新しい情報が出てくるのかが鍵となってくる。

 

ツタンカーメンの墓は違うところにある。

 

ツタンカーメンは後頭部をやられたと思われていたが

敗血症かもしれないという。

松葉杖をつきながら歩いていたらしい。

 

暗殺した犯人は

次のエジプト王になったアイという人物。

 

幼いツタンカーメンに変わって

アイが政治を動かしていた。

 

アクエンアテン王(アメンホテプ4世)

ツタンカーメン父親

この人が多神教から一神教にした。

太陽神アテンのみという信仰。

それが

ユダヤ教キリスト教イスラム教の原点。 

 

アクエンアテン王には

対立していた勢力がいて、それがアイという説。

 

アイは現シリア地方のミタンニ王国の人であった。

ミタンニ王国

現トルコ地方のヒッタイトという国に攻められても

エジプトはなにもしてくれなかったとのこと。

 

なのでアイはエジプトを乗っ取りたいという思いがあった。

ツタンカーメンの母親

ネフェルティティもミタンニ王国の人であった。

しかし

ネフェルティティも何もせず

アイに暗殺された可能性が高い。

 

ホルエムヘブというエジプトの将軍が

ツタンカーメンを暗殺を実行したという。

さらにアイも暗殺したらしい。

 

 ツタンカーメンの墓は

ツタンカーメン

アイ

ホルエムヘブが入る予定だったが

最終的にホルエムヘブが入った。

 

だから

壁画に王の名前が

なくなっていた部分があったという。

 

 

 

 太閤豊臣秀吉が造った天下の巨城。大坂城。 だが、秀吉が死に、秀頼が後を継ぐと、宿敵徳川家康の策略によって、大坂城は火の海に。追い詰められた秀頼は自害。ここに、豊臣家は滅亡したと言われている…。 ところが、大阪城落城の際に死んだはずの秀頼が遠い鹿児島まで逃げていたというのだ! 徳川軍に包囲された大阪城。絶体絶命の中、秀頼は、いかに逃げ出したのか?  さらに、徳川幕府を苦しめた島原・天草の乱一揆軍を率いていたのは、わずか16歳の少年。天草四郎。 敵将、松平信綱が目にした、天草四郎のとんでもない秘密とは!? 果たして豊臣一族は大坂で滅亡していたのか!?それとも…? 西日本各地に残る伝説を繋いでいくと、歴史の常識を覆す真実が浮かび上がってくる!

 

豊臣秀頼は生きていた。

薩摩に逃げて生き延びているという。

 

大阪夏の陣

大名が参加していなかったので

数がほしいため

キリシタン大名に参加をお願いした。

 

さらに

秀頼の遺体が発見されていなかった。

 

鹿児島県

木之下集落や木之下川というのがある。

住宅街にも秀頼公の墓がある。

谷山の印の食い逃げという言葉がある。

殿様だったので

食べてそのまま出て行ったらしい。

 

島津家は

関ヶ原で西軍について敗れた

大名を匿っていたことがある。

 

秀頼の息子、国松も生きていた。

北政所の兄弟の子孫が

木下といい

国松を養子として迎えられ

延由と名乗った。

木下延由である。

 

木下延由の位牌には

豊臣という文字がある。

 

島原の乱

一揆軍が善戦した理由に

武将がいたり武士がいた。

真田軍の生き残りである。

 

なぜ16歳の少年についていったのか。

 

幕府軍の武将だった松平信綱

逆さひょうたんの印を見たという。

 

単なる

キリシタン一揆ではなく

豊臣側と徳川側の最後の戦いであった。

 

遺体が発見されていないと

生きていたという説が出てくるのは毎度のことである。

 

織田信長明智光秀もそうである。 

 

荒俣さんいわく

ひょうたんは大ヤコブと繋がっている。

関ヶ原の負け組はひょうたんを

見て気持ちを高めていった。

キリシタンと西軍にとって

ひょうたんは都合がよかった。