誤謬日記

祈れ、働け、学べ。

工場日記 (ちくま学芸文庫) を読んで

 

 

 新進のうら若き女性哲学教師が教職をなげうち、未熟練の女工として工場に飛び込んだのは、市井の人びとの疎外状況を身をもって知るため、というだけではなかった。「人間のありのままの姿を知り、ありのままを愛し、そのなかで生きたい」という純粋かつ本質的な欲求による、やむにやまれぬ選択であった。だが、現実には激しい労働と限りない疲労に苛まれ、心身は限界に達する。過酷な日々を克明に綴った日記は問いかける、人間性を壊敗させる必然性の機構のなかで、はたして人間本来の生は可能なのか――。これは極限の状況下でひとりの哲学者が自己犠牲と献身について考え抜いた、魂の記録である。

 

工場の専門用語が

たくさん出て来たり

フランの計算、

機械の動かし方など書いてあって

とてもリアルである。

 

当時、工場の仕事は

機械の調子に左右されることが多く

故障があったり手先が器用でないと

難しい部分がある。

 

さらに労働環境の面でも

劣悪な印象を受けた。

 

しかし、

友人たちとのささいな会話で

心が満たされたり

土日が休みなので

現代の日本でも共通してる部分がある。

 

 

シモーヌ・ヴェイユは

教職員をしていたが

工場労働を体験したく仕事を始めた。

 

当たり前だが、

生活費を稼ぐために

仕事をしている人たちが大多数である。

 

そういう人たちと一緒に

労働できたことが

幸福だとも言っている。

 

シモーヌは

慈悲深い人という印象を受けた。

 

弱者の立場に立ちたいという思いがあり

キリスト教にも関わってくるのだと思う。

 

自分も工場の仕事を

高校生のときや

日雇いで経験したことがある。

 

とてもつらかった。

 

立ち仕事であり

単純作業の繰り返しで

いつでも気軽に席を立てる環境ではない。

 

さらに、配属された部署で

仕事の落差が激しく 

慣れていないのに

早く正確に仕事をこなさいといけない。

 

いちばんは

時間労働なので、時間が経つのが

ものすごく遅く感じる。

 

では、何をして時間を過ぎるのを待つか。

考え事とか妄想である。

 

過去のことを振り返ったり

仕事が終わったら何をやろうかとか

考えたりすれば

ある程度は時間が潰せる。

 

シモーヌは哲学者であり

労働中にいろいろ考えたのだと思う。

 

彼女は頭がいいので

仕事もなんなくこなせるタイプかと

思いきや、そうではなく

上司に怒鳴られていたということも

彼女が評価されたポイントでもあると思う。

 

 

自分の勝手な仮説だが

哲学者は労働者に

向いてないのではないかと思っている。

 

ツイッターでも

大学院の哲学科みたいなプロフィールの人が

仕事がつらいと嘆いている。

 

ようするに

仕事中にいろいろ考えてしまうのである。

 

哲学者は考えることが

好きでストレスなく、

無意識にやってしまうのだろう。

 

そんなことをしていたら

長く勤めることはできない。

 

この本では

ときより仕事について

心が軽くなる文章がある。

 

仕事で苦しい時、

個人としての苦しみと捉えるのではなく

労働者としての苦しみと捉えている。

 

仕事で嫌なことがあっても

それもまた人生という一部なのかもしれないと

思えるようになった。